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宇都宮地方裁判所 昭和63年(行ウ)3号 判決

原告 小平沢保己

被告 今市労働基準監督署長

代理人 堀内明 山内敦夫 中島和美 上武光夫 桧山達雄 臼井幸弘 ほか五名

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一当事者の求める裁判

(原告の請求の趣旨)

一  被告が原告に対して昭和六二年一二月八日付でした労働者災害補償保険法に基づく障害補償給付を支給しない旨の処分を取り消す。

二  訴訟費用は被告の負担とする。

(請求の趣旨に対する被告の答弁)

主文同旨

第二当事者の主張

(原告の請求の原因)

一  騒音に曝される業務

原告は、別紙職歴表記載のとおり、昭和二八年三月、北海道土幌町糖平所在旧国鉄糖平線のトンネル工事荒井建設・及川組事業所において、トンネル内作業に従事したのを初めとして、昭和五六年一〇月、栃木県今市市佐下部字平田岳所在の東京電力地下発電所工事鹿島建設・橘工業における掘削作業を最終の職場として離職するまでの間、主としてトンネル工事の抗夫として掘削作業などに就労した。そして、その間、各地の工事現場において、一か月平均二五日(多いときで三〇日)、一日につき、平均して四時間以上(長いときで八時間)、通算すると一八年八か月の長期間にわたり、削岩機から発せられる強烈な騒音や発破の爆発音に曝された。

二  聴力障害とその業務起因性

1 原告は、右のように、長期間強烈な騒音に曝された結果、聴力障害や耳鳴りを自覚するようになった。そして、離職後も右症状は治まらず、昭和六二年六月二二日、青森県八戸市大字白銀町所在の青森労災病院で聴力検査を受けたところ、聴力障害は、六分法平均で右耳四〇db、左耳三七・五dbであり、両耳内耳性難聴であると診断された。

2 原告には、鼓膜及び内耳に難聴以外の病変はなく、突発性難聴の可能性もない。また聴力検査成績表(オージオグラム)によると、聴力障害は四〇〇〇ヘルツ領域で大きく、骨導値と気導値がほぼ同一レベルであり、障害の現れ方が両耳同じであって、騒音性難聴の典型的な症状を呈している。

3 したがって、原告の右聴力障害は、前記一の業務に起因するものである。

三  本件給付請求

原告は、昭和六二年六月二九日、被告に対し、右の障害について、労働者災害補償保険法(以下「労災保険法」という。)一二条の八、一五条に基づき、障害補償給付の支給請求をした(以下「本件給付請求」という。)。

四  本件処分

被告は、これに対し、右請求に係る障害補償給付を受ける権利が労災保険法四二条に定める時効期間(五年)の経過により既に消滅しているとの理由により、昭和六二年一二月八日付で、不支給決定の処分(以下「本件処分」という。)をし、同日付で原告に対しその旨通知した。

五  不服申立

原告は、本件処分を不服として、昭和六二年一二月一六日、栃木労働者災害補償保険審査官に対し、審査請求をしたが、右審査官は、昭和六三年三月二二日、本件処分と同様の理由で原告の右審査請求を棄却する旨決定し、同月三一日右決定書の謄本を原告に送達した。原告は、審査官の決定を不服として、昭和六三年四月一三日、労働保険審査会に対し、再審査請求をした。

六  しかしながら、本件処分は労災保険法四二条の解釈・適用を誤った違法な処分であるから、原告は被告に対し、その取消を求める。

(請求の原因に対する被告の認否)

一1  請求の原因一のうち、原告が別紙職歴表15の建設工事現場において地下坑道作業(掘削作業)に従事し、昭和五六年一〇月(正確には同月九日)に同所を最終の騒音職場として離職したことは認め、その余は知らない。

2  騒音性難聴に罹患したというためには、当該難聴が著しい騒音に曝露される業務に長期間引き続き従事した後に発生している必要があるが、最終騒音職場である別紙職歴表15において約一年間騒音作業に従事していただけでは、長期間騒音作業に従事していたとはいえない。

二1  請求の原因二の1のうち、原告が昭和六二年六月二二日に青森労災病院で聴力検査を受け、検査結果が六分法平均で右耳四〇db、左耳三七・五dbであったこと、内耳性難聴であると診断されたことは認め、その余は知らない。同二の2は知らない。同二の3は争う。

2  当該難聴が騒音性難聴といえるためには、鼓膜または中耳に著変がなく、かつ内耳炎等による難聴でないと判断される必要があるが、原告については、老人性難聴や薬物中毒による難聴など他の原因による病変の可能性を否定できない。

三  請求の原因三ないし五は認める。

四  請求の原因六は争う。

(被告の抗弁)

原告の本件障害補償給付を受ける権利は、原告の騒音性難聴の症状が固定したとき、すなわち最終騒音職場を離職した昭和五六年一〇月九日から、労災保険法四二条所定の五年の経過により消滅した。

一  除斥期間

1 労災保険法四二条は、「障害補償給付を受ける権利」について、除斥期間を定めた規定である。

(一) 労災保険法上の業務災害に関する保険給付は、災害補償の事由が生じた場合に、労働者の申請により、行政機関の決定に基づいて行われ(同法一二条の八第一項、二項、労災保険法施行規則一四条の二、一九条)、具体的な保険給付請求権は、行政機関の支給決定によって初めて生ずるものであるところ、労災保険法四二条にいう「障害補償給付を受ける権利」は、当該障害補償給付の支給決定に関する行政処分を求める権利であり、労働者が労働基準監督署長宛てに所定の申請書及び必要書類を提出し、労災保険給付の可否の決定を求める権利にとどまる。なお、支給決定により具体的に確定した保険給付請求権は、会計法三〇条にいう金銭の給付を目的とする国に対する権利として同法に定める五年の消滅時効にかかる。

(二) 右のとおり、本件障害補償給付を受ける権利は、当該障害補償給付の支給決定に関する行政処分を求める権利であり、労働者が労働基準監督署長宛てに所定の申請書及び必要書類を、労災保険法四二条所定の期間(五年間)内に提出することによって行使され、その後支給の許否に関する決定が一定期間内になされなくとも、時効中断のための申請を繰り返す必要はない。したがって、労災保険法四二条は、「時効」との文言を用いているが、その実質は保険給付請求書の提出期間、すなわち除斥期間を定めた規定である。このことは、本件障害補償給付を受ける権利が、労災保険法所定の手続により行政機関が当該障害補償の給付決定を行うことによって定まる具体的な保険給付請求権とは異なるものであって、「国に対する権利で、金銭の給付を目的とするもの」(会計法三〇条)ではないことからも明らかであり、本件障害補償給付を受ける権利には、同法三一条に定める時効に関する規定は適用されない。

(三) 労災保険法は、業務上の事由又は通勤による労働者の負傷、疾病、障害又は死亡に対して迅速かつ公正な保護をするため、必要な保険給付を行い、併せて業務上の事由又は通勤により負傷、疾病にかかった労働者の社会復帰の促進、当該労働者及びその遺族の援護、適正な労働条件の確保等を図り、もって労働者の福祉の増進に寄与することを目的とし(同法一条)、その補償保険は政府が管掌する(同法二条)。本件障害補償給付を受ける権利は、このように障害に遭遇した労働者をおしなべて救済するという社会的要請に基づく社会保険政策上の見地から、当該労働災害につき使用者の帰責事由の有無を問わず、政府において補償給付を行おうとする公法上の権利であり、国に対する具体的な保険給付を求める権利や不法行為に基づく損害賠償請求権とは法的性格を異にする。

(四) 労災保険法四二条が本件障害補償給付を受ける権利につき五年の経過により消滅するとしたのは、(1)同法における保険給付を受ける権利(保険給付の支給決定を請求する権利)は、その行使が容易であり、またこれらの権利関係を長期にわたり不安定な状態のもとにおくと、証拠となる関係資料が散逸し、事務を複雑化させるおそれがあること、(2)前記(三)のとおり、右権利は社会保険政策上の見地から制度化された公法上の権利であり、公法の分野においては、権利関係を早期に確定し、平等で画一的な処理をすべきことが要請されるからであり、以上の趣旨から、右権利については、個人的な意思を尊重する時効援用の制度を排斥し、権利を除斥期間に係らしめることとして、これを権利の絶対的消滅事由とした。

(五) 以上のとおり、労災保険法四二条は、前記のような障害補償給付の支給決定を求める権利について、除斥期間を定めた規定である。

2(一) 障害補償給付を受ける権利は、当該労働者につき支給事由の生じたとき、すなわち「労災補償の事由が生じた」とき(労災保険法一二条の八)に発生する。「労災補償の事由」とは、「労働者が業務上負傷し、又は疾病にかかり、なおったとき身体に障害が存する場合」(労災保険法一二条の八第二項、労働基準法七七条)であるから、本件騒音性難聴については、その症状が固定したとき、すなわち最終騒音職場を離脱したときである昭和五六年一〇月九日が「労災補償の事由が生じた」ときであり、そのとき本件障害補償給付を受ける権利は発生した。

(二) したがって、本件障害補償を受ける権利は、右昭和五六年一〇月九日から労災保険法四二条所定の五年の除斥期間の経過により消滅した。

二  消滅時効(一)

仮に労災保険法四二条が除斥期間ではなく、消滅時効を定めた規定であるとしても、本件の場合、右消滅時効は、原告の騒音性難聴の症状固定のとき(権利の発生時)、すなわち原告が最終騒音職場を離脱した昭和五六年一〇月九日から進行する。

1 労災保険法には消滅時効の起算点に関する規定がないので、時効に関する一般法である民法一六六条が準用され、「権利ヲ行使スルコトヲ得ル時」から消滅時効が進行する。「権利ヲ行使スルコトヲ得ル時」とは、権利行使に関し法律上の障碍がないことをいい、権利者が権利の存在やその行使の可能性を知らない場合など、権利者の権利行使期間に関する不知は、単なる事実上の障碍であって、消滅時効の進行を妨げない。

2 本件障害補償給付を受ける権利は、前記一2の(一)のとおり、原告の騒音性難聴の症状が固定したとき、すなわち原告が最終騒音職場を離脱したときに発生し、その時から消滅時効が進行する。

3(一) もっとも、法律上の障碍がないときから消滅時効を進行させることが権利の性質上明らかに権利者に酷な場合には、現実に権利を行使しうるときを消滅時効の起算点とすべきである。

(二) しかしながら、労災保険法上の保険給付を受けようとする者は、所定の必要書類を添付して労働基準監督署長に対し、保険給付を受ける旨の申請をすれば足り、法令が予定する補償事由が備わっている旨の確たる医学的診断を得ることは必要ではない。申請者のいう障害が労災保険法の予定する類型のものであるか否か、またその障害が業務上の事由によって発生したものか否かは、関係行政機関において全面的に調査することになっており、その調査結果に基づき、労働基準監督署長が支給決定をする。したがって、申請者は、自ら積極的に医学的診断や証拠資料を収集しなければならないものではなく、右収集の前提として障害補償給付を受ける権利の存在を覚知しておく必要もない。

確かに、騒音性難聴の専門的鑑別は素人には困難である。しかしながら、騒音職場において騒音に曝露されていた労働者に聴力障害が生ずることは、本件最終騒音職場離職時である昭和五六年一〇月九日以前から一般に広く知られており、騒音性難聴の場合はその離職時までに聴力障害を自覚するのが通常であるうえ、先天的素因、薬物中毒の罹患、爆発音や頭部・頸部外傷等による内耳障害など難聴を来す他の原因については、請求者において認識しているのが普通であるから、自己の難聴が騒音性難聴に該当するのではないかと疑うことは十分可能であり、その時点では速やかに専門医の診断を受けることが期待でき、その診断結果によって騒音性難聴の特徴が認められれば、直ちに障害補償支給請求書の提出を行うことができる。

したがって、右権利発生時において、その権利行使を現実に要求することは、困難を強いるものとはいえない。

(三) なお、保険給付の請求には、労災保険法施行規則一四条の二所定の事項を記載した請求書に「疾病がなおったこと及びなおった日並びにそのなおったときにおける障害の部位及び状態」に関する医師の診断書を添付して所轄の労働基準監督所に提出することになっており、時効期間が切迫している場合に、権利行使に困難を来しそうではあるが、右診断書が請求書提出の際に添付されていなくても請求書は受理され、その受理日が記録された後に当該給付請求者にこれが返戻され、速やかに補正されたときには、時効期間との関係では受理日において権利行使がなされたとして実務上処理される(労災保険給付事務取扱手引)から、この場合にも権利行使は可能である。

4 以上のとおり、本件障害補償給付を受ける権利は、最終騒音職場離職日に発生し、権利行使について法律上の障碍がないから、労災保険法四二条の消滅時効は、右離職日(本件では昭和五六年一〇月九日)から進行する。

5 なお原告は、障害補償給付を受ける権利については、不法行為に基づく損害賠償請求権の消滅時効に関する民法七二四条前段を類推し、消滅時効の起算点は、その行使が客観的に可能であるだけでなく、その障害が業務に起因するものであるとを労働者が知った時点であると主張する。

しかしながら、障害補償給付を受ける権利は、(一)前記一1の(三)のとおり、業務上の負傷又は疾病について何ら帰責原因のない政府に対し、被災労働者の救済と生活保障を目的として、使用者側の帰責事由の有無を問わず保険給付を請求しうることとした公法上の権利であり、不法行為に基づく損害賠償請求権とは趣旨、目的を異にし、(二)また前記二3の(二)及び同(三)のとおり、不法行為に基づく損害賠償請求権と異なり、その権利の行使は困難ではない。更に、(三)労災保険法四二条は、証拠資料の収集の可能な限界を踏まえ、障害補償給付を受ける権利については、時効期間を不法行為に基づく損害賠償請求権より長い五年と定め、不法行為の場合とは異なった配慮をしている。

したがって、労災保険法四二条の規定する「障害補償給付を受ける権利」については、不法行為に基づく損害賠償請求権の消滅時効の起算点に関する民法七二四条前段を類推することはできない。

三  消滅時効(二)

仮に、労災保険法四二条の障害補償給付を受ける権利の消滅時効について、民法七二四条前段が類推されるとしても、原告が自己の聴力障害が業務上の疾病であることを覚知した時期は、原告主張のように、原告が青森労災病院においてオージオメーターを使用した医学的、専門的検査を受けた昭和六二年六月二二日ではなく、遅くとも最終騒音職場離職日である昭和五六年一〇月九日である。

1 前記二3の(二)のとおり、騒音職場に長期間従事すると騒音性難聴に罹患することがあることは、原告が最終騒音職場を離職した昭和五六年一〇月九日以前から公知の事実であった。また原告自身も、昭和三一年ころ、建設現場の作業中初めて耳栓を使用するようになり、昭和四五年ころから昭和五二年二月ころまでの間、作業中耳栓を使用しており、騒音に曝露することにより発症する聴力障害について予防措置を講じていた。

2 原告は、昭和五三年一〇月ころ砕石現場で働いていた時期に、耳鳴り、頭痛、めまい等があり、そのころから自己の難聴を自覚し、昭和五五年ころからは耳鳴りもひどくなり、イライラ、不安感、疲労が激しくなった。

3 しかしながら、原告には、当時難聴となる他の原因は一切なかった。すなわち、原告は、遺伝性・先天性難聴に罹患したことはない。また、軍歴はなく、戦争による爆撃に曝された経験もなく、中耳炎等の病気もないうえ、薬物中毒等聴力を障害する病気に罹患したこともない。したがって、遅くとも最終騒音職場の離職日である昭和五六年一〇月九日には、自己の聴力障害が業務上のものであることを覚知していたといえる。

4 以上の次第で、仮に労災保険法四二条の障害補償給付を受ける権利の消滅時効に民法七二四条前段が類推適用されるとしても、原告の騒音性難聴の症状が固定したとき、すなわち原告が最終騒音職場を離職した昭和五六年一〇月九日から五年を経過したことにより、本件障害補償給付を受ける権利は時効により消滅した。

(抗弁に対する原告の認否)

抗弁のうち、原告が最終騒音職場を離職したのが昭和五六年一〇月九日であったことは認め、その余の事実は否認し、法律的主張は争う。

(抗弁に対する原告の反論)

一  消滅時効(一)

1 労災保険法四二条は消滅時効の規定であり、右時効の起算点には民法七二四条前段が類推適用されるから、障害補償給付を受ける権利の消滅時効は、当該業務に起因して発生した傷病の症状が固定し、かつ当該労働者が右障害の業務起因性を覚知した時から進行する。

(一) 労災保険法上の保険給付を受ける権利と不法行為に基づく損害賠償請求権は、それぞれ異なった根拠と独自の性格をもった請求権であるが、いずれも業務に起因した傷害・疾病に対する損害の填補をなす点で共通の性格を有している。労災保険法附則六七条は、年金給付となる保険給付と損害賠償との関係についての調整規定を設け、被災労働者が同一の事由で損害賠償と保険給付を重視して請求することを制限しており、両請求権の本質的な共通性、類似性を認めている。

(二) また、障害補償給付の対象となるべき障害の中には、その業務起因性が必ずしも明白ではなく、専門的、医学的な鑑別診断を経ることによって初めてその業務起因性を確認することができる類のものが少なくない。そして、このような類の障害については、被災者である労働者が当該障害の業務起因性を知るまでの間は、当該労働者においてこれに関する補償給付の請求をすることは、現実的には全く不可能である。このことは、不法行為の被害者において、加害者及び損害を認識するまでの間は、その不法行為による損害賠償の請求権を行使することが現実には不可能であるのと同じである。

(三) 労災保険法は、被災者である労働者の救済とその生活の保障を目的とするものであり、同法四二条に定める請求権について、民法七二四条前段を類推適用することは、労働者の保護を目的とする労災補償制度の立法趣旨に合致こそすれ、これに何ら反するものではない。

2 本件において、原告が自己の障害(騒音性難聴)の業務起因性を覚知した時は、原告が昭和六二年六月二二日青森労災病院で医学的、専門的聴力検査を受けたときである。

(一) 騒音性難聴は、その原因等に関する鑑別診断が極めて困難な障害に属し、原告は、オージオメーターを使用した医学的、専門的聴力検査を受け、聴力障害の原因等に関する診断結果を知ることにより、初めて自己の騒音性難聴が業務に起因するものであることを知ることができた。

(二) 原告が聴力障害を自覚したのは、振動病になった後に妻からの指摘を受けたことによるものであり、在職中や退職直後には「騒音性難聴」を明確には自覚していなかった。原告が耳の検査を自発的に受けに行ったのは昭和六二年三月ころであり、それ以前に振動病に関する検査は受けたが、その際には耳の検査をしたという自覚を持っていなかった。そして、昭和六二年六月二二日に至り、青森労災病院において、初めてオージオメーターによる医学的、専門的な聴力検査を受け、自己の聴力障害が業務に起因することを覚知した。

3 したがって、本件障害補償給付を受ける権利は、原告が自己の聴力障害の業務起因性を覚知した昭和六二年六月二二日から進行し、原告が本件給付請求をした昭和六二年六月二九日には消滅時効は完成していない。

二  消滅時効(二)

1 仮に、労災保険法四二条の障害補償給付を受ける権利の消滅時効の起算点について、民法一六六条一項が類推適用されるとしても、右権利の消滅時効は、当該業務に起因して発生した傷病の症状が固定し、かつ原告が自己の聴力障害の業務起因性を覚知したときから進行する。

(一) 民法一六六条一項の「権利ヲ行使スルコトヲ得ル時」とは、単にその権利の行使につき法律上の障碍がないというだけではなく、更に権利の性質上その権利の行使が現実に期待できるものであることを要する。権利の種類、性質によっては、権利の行使につき法律上の障碍がなくても権利の行使を当事者に期待することが事実上不可能に近いものがあり、この場合に法律上の障碍がないからといって消滅時効を進行させるのは、権利者に対し苛酷であり、時効制度の趣旨にも反するからである。したがって、民法一六六条一項の消滅時効の起算点は、権利の性質・内容及び債権者の職業・地位・教育等から権利を現実に行使することができる時である。

(二) 前記のとおり、傷害補償給付の対象となるべき障害の中には、その業務起因性が必ずしも明白ではなく、専門的、医学的な鑑別診断を経ることによって初めてその業務起因性を確認することができる類のものが少なくない。そして、このような類の障害については、被災者である労働者が当該障害の業務起因性を知るまでの間は、当該労働者においてこれに関する補償給付の請求をすることは、現実的には全く不可能である。そして、騒音性難聴は、その原因等に関する鑑別診断が極めて困難な障害に属し、原告はオージオメーターを使用した医学的、専門的聴力検査を受け、聴力障害の原因等に関する診断結果を知ることにより、初めて自己の騒音性難聴が業務に起因するものであることを知ることができ、その時点で初めて権利行使が現実に期待できる。

2 原告は、昭和六二年六月二二日に至り、青森労災病院において、初めてオージオメーターによる医学的、専門的な聴力検査を受け、自己の聴力障害が業務に起因することを覚知したのであるから、右時点から消滅時効が進行する。したがって、原告が本件給付請求をした昭和六二年六月二九日には本件障害補償給付を受ける権利の消滅時効は完成していない。

三  消滅時効(三)

1 騒音性難聴には、騒音職場を離職し、その後は騒音の曝露を受けていないにもかかわらず、なおその後も進行する型のものがあり、その症状固定の時期を客観的に特定することは不可能である。この場合、医師の専門的な診断を受け、症状固定の診断を経て初めて症状固定が客観的に明らかとなる。

2 したがって、本件の場合、原告が初めて医師の専門的診断を受けた昭和六二年六月二二日から、消滅時効は進行する。

第三証拠 <略>

理由

一  請求の原因一(騒音に曝される業務)について

<証拠略>を総合すると、1原告は、別紙職歴表記載のとおり、昭和二八年三月ころ、北海道土幌町糖平所在の旧国鉄糖平線トンネル工事荒井建設・及川組事務所において、トンネル内作業に従事したのを初めとして、昭和五六年一〇月九日、栃木県今市市佐下部字平田岳所在の東京電力地下発電所工事鹿島建設・橘工業における掘削作業を最終の職場として離職するまでの間、主としてトンネル工事の坑夫などとして就労したこと、2その間、削岩機を使用したトンネル内の削岩・掘削作業や火薬で岩石を爆破する発破作業などに従事し(なお、削孔中は耳栓をしていることもあった。)、また右のような作業による騒音の生ずる場所で、一か月一〇日ないし三〇日、一日四時間ないし八時間稼働し、断続的に削岩機による著しい騒音や発破による爆発音に曝されたことが認められ、これを覆すに足りる証拠はない。

二  請求の原因二(聴力障害とその業務起因性)について

1  原告の聴力障害について

<証拠略>によると、以下の事実が認められ、これを覆すに足りる証拠はない。

(一)  原告は、昭和五三年秋ころから自己の難聴を自覚し、耳鳴り、肩凝り、頭痛や目まいなどの症状に悩み始め、昭和五七年八月九日、岩手県盛岡市内の仁王診療所において、振動障害の検査の一環としてオージオメーターよる聴力検査を受け、平均聴力喪失値が右耳四五db、左耳四二・五〇dbで中等度難聴と診断され、同日から振動障害について労災保険法による保険給付を受けた。また同年一二月二一日、青森県八戸市内の青森労災病院において、同様に振動障害の検査の一環としてオージオメーターよる聴力検査を受け、薬の投与を受けた。

(二)  昭和六二年六月二二日、本件給付請求をするために、青森労災病院において、オージオメーターよる聴力検査を受け、聴力障害は六分法平均で右耳が四〇db、左耳が三七・五db(聴力レベル)で、両耳難聴、耳鳴りを認めると診断された。オージオグラムの結果は、気導値(音波が外耳道を通って鼓膜を振動させ、鼓膜、耳小骨を経て内耳に至る音の伝わり方を「気導」といい、気導検査によって得られた数値を「気導値」という。)と骨導値(振動体を頭蓋に当て、その振動を直接頭蓋に伝える方法による音の伝わり方を「骨導」といい、骨導検査によって得られた数値を「骨導値」という。)とが障害され、ともにほぼ同数値で、感音難聴(内耳かそれより中枢部分に障害がある場合)の特徴を示しており、また聴力障害が低音域より三〇〇〇Hz以上の高音域、特に四〇〇〇Hz付近に高い聴力障害が発生していた(C5dip型)。そして右診断の際、鼓膜及び内耳に難聴以外の病変はなく、病歴の記載により突発性難聴の可能性もないと推測されると診断された。

(三)  原告には、前記一の騒音業務の他に右難聴を来すような中耳炎等の耳の病気、薬物中毒、メニエール病、頭部障害等による内耳障害、戦争等の爆発音による内耳障害、糖尿病等に罹患したことはなく、遺伝性・先天性難聴を疑わせるような病歴、親族関係もない。

以上のとおりである。

2  業務起因性

(一)  <証拠略>によると、騒音性難聴について以下の事実が認められ、これを覆すに足りる証拠はない。

(1) 騒音性難聴は、ある一定以上の騒音(概ね八五dB以上の騒音)に長期間繰り返し曝露されることにより生ずる聴力障害であり、その障害は高音域から始まり、一般に初期の段階にはオージオグラムが四〇〇〇Hz付近に限局した障害(C5dip型)を示す。このような高音域の聴力障害の進行は騒音曝露の比較的早い時期において著明で、次第にその進行の速度が緩慢となり、更に曝露期間に応じてより高音域へ、次いで中音域、低音域へと広がっていく。

(2) 騒音性難聴に罹患した者が訴える主たる自覚症状は、自覚難聴と耳鳴りであるが、障害が高音域から生じ、後に会話音域に至るため、当初難聴を自覚しない場合がある。

(3) 騒音曝露によって障害される部位は内耳であり、内耳に起こる病的変化の発生機序は必ずしも明らかになってはいないが、蝸牛基底回転におけるラセン器の変性であると考えられる。

(4) 騒音性難聴は両側性であり、また現在のところ有効な治療法は確立されていない。

以上のとおりである。

(二)  また、<証拠略>によると、昭和六一年三月一八日付労働省労働基準局長基発第一四九号通達による騒音性難聴(職業性難聴)が業務上のものであるかどうかの認定基準は、(1)著しい騒音(概ね八五dB(A)以上の騒音)に曝露される業務に長期間(概ね五年以上)引続き従事した後に発生したものであること、(2)次の〈1〉及び〈2〉のいずれにも該当する難聴であること、すなわち〈1〉鼓膜又は内耳に著変のないこと、〈2〉純音聴力検査の結果が次のとおりであること、イ・オージオグラムにおいて気導値及び骨導値が障害され、気導値と骨導値に明らかな差がないこと、すなわち感音難聴の特徴を示すこと、ロ・オージオグラムにおいて聴力障害が低音域より三〇〇〇Hz以上の高音域において大であること、(3)内耳炎等による難聴でないと判断されるものであることが認められ、これに反する証拠はない。

(三)  そこで、右騒音性難聴の特徴及び労働基準監督署の認定基準に原告の難聴の症状、検査結果等を照らして検討すると、原告の難聴は、前記一のとおり、昭和二八年三月ころから昭和五六年一〇月九日までの間、通算約一九年間、断続的に削岩機の騒音や発破の爆発音に曝された中で発生したものであり、ほぼ労働基準監督署の認定基準(1)項を充たしている。また前記二の1で認定したとおり、その症状は騒音性難聴の特徴である右認定基準(2)項の内容をほぼ満たす内容となっており、しかも原告には他に右難聴を来す要因も見当たらない(認定基準(3)項を充たしている。)ことが認められる。

(四)  以上の事実を総合すると、原告の難聴は原告が従事した前記一認定の業務に起因した騒音性難聴と認められ、右認定を左右する証拠はない。

三  請求の原因三(本件給付請求)、同四(本件処分)及び同五(不服申立)は、いずれも当事者間に争いがない。

四  抗弁(労災保険法四二条所定の期間の経過)について

1  被告は、原告の本件障害補償給付を受ける権利は労災保険法四二条所定の期間の経過により消滅したと主張するところ、同条の定める期間の性質及びその起算点について当事者間に争いがあるので、以下順次検討を加える。

2  「障害補償給付を受ける権利」の性質

(一)  労災保険法は、「業務上の事由又は通勤による労働者の負傷、疾病、障害又は死亡に対して迅速かつ公正な保護をするため、必要な保険給付を行い、あわせて、業務上の事由又は通勤により負傷し、又は疾病にかかった労働者の社会復帰の促進、当該労働者及びその遺族の援護、適正な労働条件の確保等を図り、もって労働者の福祉の増進に寄与することを目的」とし(同法一条)、その業務は「政府が、これを管掌する。」(同法二条)と定めている。労災保険法上の業務災害に関する保険給付を受ける権利は、このような労災保険法の趣旨に則り、業務災害に被災した労働者を広く救済するという社会的要請に基づき、当該業務災害について、民法上の債務不履行責任や不法行為責任の場合に求められるような使用者の帰責事由を問題とすることなく、政府において、一定限度の補償給付を行ない、もって労働災害の被災労働者を救済しようとするものである。したがって、労災保険法四二条にいう「障害補償給付を受ける権利」は、右のような社会保険政策上の見地から定められた公法上の請求権と解される。

(二)  労災保険法上の業務災害に関する保険給付は、災害補償の事由が生じた場合に、労働者若しくは遺族等の請求に基づいて、行政機関(労働基準監督署長)の決定により行われ(同法一二条の八第一項、二項、同法施行規則一四条の二、一九条)、請求者は、労働基準監督署長の支給決定により、具体的な保険給付請求権を取得する。支給決定により具体的に確定した保険給付請求権は、会計法三〇条にいう金銭の給付を目的とする国に対する権利として同法に定める五年の消滅時効にかかり、労災保険法四二条にいう「障害補償給付を受ける権利」は、請求者が労働基準監督署長に対し、当該障害補償給付の支給決定を求める権利であると解される。

(三)  障害補償給付は、労働基準法七七条に規定する災害補償の事由が生じた場合、すなわち「労働者が業務上負傷し、又は疾病にかかり、なおつたとき身体に障害が存する場合」に行われる(労災保険法一二条の八第一項三号、二項、労働基準法七七条)。したがって、障害補償給付を受ける権利が発生するためには、当該傷病が「なおつたこと」、すなわち治癒することが必要であり、治癒前は業務に起因する傷病があっても、障害補償給付を受けることはできない。傷病の治癒とは、当該傷病の症状が安定ないしは固定した状態(治療の必要及び効果がなくなったこと)をいい、この時点においてなお障害が残った場合に障害補償給付を受ける権利が発生する。

3  労災保険法四二条所定の期間の性質

(一)  労災保険法四二条は、「障害補償給付を受ける権利は、五年を経過したときは、時効によって消滅する。」と規定しているところ、被告は、右期間は労災補償給付を受ける権利、すなわち労働基準監督署長に対し障害補償給付の支給決定を求める権利(労働者が労働基準監督署長に所定の申請書及び必要書類を提出し労災保険給付の可否の決定を求める権利)の行使期間(除斥期間)であり、障害補償給付を受ける権利が発生した時、すなわち業務に起因する傷病の症状が安定ないし固定した時から一律に右期間が進行すると主張する。

(二)  確かに、障害補償給付を受ける権利は、民法上の債務不履行や不法行為に基づく損害賠償請求権と異なり、社会保険政策上の見地から定められた公法上の請求権であり、労災保険法四二条所定の期間の性質を除斥期間と解すれば、労災保険給付事務の画一的処理を図ることができ、証拠の散逸等による労災保険給付事務の複雑化を防止し、公法上の請求権の早期確定の要請にかなう結果になる。

(三)  しかしながら、一般に、障害補償給付の対象となる業務に起因する障害の中には、医学的な因果関係が解明されていないとか、医学的、専門的にみて業務起因性が不明確で、その鑑別診断が極めて困難であるなど、その当時の諸般の事情のため、労働者において、その業務起因性を全く知りえない類のものがあることは裁判所に顕著であり、このような障害について、労働者が全く業務起因性を知りえないにもかかわらず、業務に起因する傷病の症状安定ないし固定の時から、一律に除斥期間として期間が進行すると解すると、現実には全く権利行使が不可能な状態のままで、期間が経過し、権利が消滅することになり、著しく不合理である。労災保険法四二条は、文言上明確に「時効」と規定しており、また同法三五条二項は、保険給付に関する決定に対する「審査請求又は再審査請求は、時効の中断に関しては、これを裁判上の請求とみなす。」と規定し、障害補償給付を受ける権利について、時効の中断に関する規定を置いているのであって、このような労災保険法の明文に反して、労災保険法四二条所定の期間を除斥期間と解さなければならないまでの根拠はないというべきである。

(四)  したがって、労災保険法四二条は、障害補償給付等の保険給付を受ける権利の消滅時効を定めた規定であると解するのが相当である。

4  消滅時効の起算点

(一)  労災保険法四二条は、保険給付を受ける権利の消滅時効の起算点について、格別の規定を置いていないところ、本件障害補償給付を受ける権利については、民法の原則規定である民法一六六条一項が準用ないし類推適用されると解すべきである。

(二)  民法一六六条一項は、消滅時効の起算点につき「権利ヲ行使スルコトヲ得ル時」と規定する。これは、権利を行使することに法律上の障碍がない状態が存するとともに、その権利の性質上、権利行使が現実に期待のできるものであることを要すると解される(最高裁昭和四五年七月一五日大法廷判決、民集二四巻七号七七一頁)。

これを障害補償給付を受ける権利について検討すると、一般に、障害補償給付の対象となる業務に起因する障害の中には、医学的な因果関係が解明されていないとか、医学的、専門的にみて業務起因性が不明確で、その鑑別診断が極めて困難であるなど、その当時の諸般の事情のため、労働者において、その業務起因性を全く知りえない類のものがあることは前記のとおりであり、このように労働者が全く業務起因性を知りえないにもかかわらず、業務に起因する傷病の症状安定ないし固定の時から、一律に消滅時効が進行すると解すると、現実には全く権利行使が不可能であるにもかかわらず、時効が完成して権利が消滅することになり、著しく不合理と解される。したがって、障害補償給付を受ける権利の消滅時効が進行するためには、権利が発生して権利行使に法律上の障碍がない状態を要するとともに、当該権利の性質上、右のような諸般の事情から権利行使が現実に期待のできるものであること、すなわち労働者において権利の存在(当該傷病の症状が安定ないし固定したこと及びその業務起因性)を認識しうることを要すると解すべきである。

(三)  この点、原告は、労働災害は民法上の不法行為に類似しており、医師による専門的、医学的な検査、診断を受けて初めて、当該傷病が業務に起因するものであることを知り、権利行使をすることが可能となるから、障害補償給付を受ける権利の消滅時効には、民法上の不法行為に基づく損害賠償請求権の消滅時効に関する民法七二四条前段を類推適用し、消滅時効が進行するためには、当該傷病の症状が安定ないし固定することによって障害補償給付を受ける権利が発生し、客観的に権利行使が可能となっただけではなく、医師による専門的、医学的検査と診断を受け、当該傷病が業務に起因することを労働者が覚知したことが必要であると主張する。

しかしながら、当該労働者において、諸般の事情から権利の存在(当該傷病の症状の安定ないし固定及びその業務起因性)を認識しえたにもかかわらず、不注意からこれを覚知しなかった者についてまで保護する必要は全くなく、また労災保険給付を受ける権利が民法上の不法行為に基づく損害賠償請求権とは異なる公法上の請求権であることも考慮すると、原告の右解釈は採用することができない。

5  そこで、右に述べたことを前提に、原告の本件障害補償給付を受ける権利の消滅時効の起算点について検討する。

(一)  騒音性難聴の症状安定ないし固定

(1) 前記四の2の(三)で述べたとおり、障害補償給付を受ける権利が発生するには、当該傷病が「なおつたこと」、すなわち治癒することが必要であり、傷病の治癒とは、当該傷病の症状が安定ないし固定した状態(治療の必要及び効果がなくなったこと)をいい、この時点においてなお障害が残った場合に障害補償給付を受ける権利が発生し、客観的に権利行使が可能となると解される。

(2) 騒音性難聴の症状等の特徴は、前記二2の(一)及び(二)のとおりであるが、<証拠略>によると、騒音性難聴は、その発生の原因である騒音作業から離脱し、難聴を発生させ又は進行させる要因が消滅した場合にはそれ以上に症状が進行したり、増悪したりすることはなく、また現段階においては、騒音性難聴の有効な治療法は確立していないことが認められるから、騒音性難聴については、当該労働者が最終の騒音職場を離脱した時にその症状が安定ないし固定したものと認めるのが相当である。

(3) これに対し、原告は、医学的に進行性ないし遅発性の騒音性難聴の存在を否定することができないから、騒音職場を離脱しただけでは騒音性難聴の症状が安定ないし固定したとはいえないと主張し、<証拠略>には、原告の右主張に沿うかのような医学的見解が示されている。

しかしながら、<証拠略>によると、右の文献(<証拠略>)において、進行性又は遅発性の騒音性難聴の存在を示唆した岩手医科大学の立木孝教授は、「長期間の騒音曝露後に難聴が発生し、急速にそれが進行して高度になった症例はこの二〇年間(昭和六三年から過去二〇年間)に一例もないから、明らかな遅発進行型の騒音性難聴はないと考えられる。騒音曝露終了後に難聴が緩徐に進行したという訴えを持つ例は存在するが、これは騒音に曝露されていない人に見られる加齢による聴力悪化の範疇に入るもので、騒音の直接作用ではなく、遺伝的要因によって規定されている内耳の被障害性のあらわれであると考えられる。」と述べて、進行性または遅発性の騒音性難聴の存在に否定的な見解を示していることが認められる。右見解に照らすと、進行性ないし遅発性の騒音性難聴が存在するとの原告の主張は確立した医学的な知見とは到底いい難く、むしろ医学的にはその存在は否定的に解されていると認められ、他にこれを覆すに足りる証拠はない。

(4) 以上のとおり、騒音性難聴は、当該労働者が最終騒音職場を離脱した時にその症状が安定ないし固定すると認められるところ、本件の場合、前記一で認定したとおり、原告は遅くとも昭和五六年一〇月九日には騒音職場を離脱しているから、この時点において、原告の騒音性難聴の症状は安定ないしは固定して障害補償給付を受ける権利が発生し、客観的には権利行使が可能となったと認められる。

(二)  原告が権利の存在を認識しえた時

(1) 前記のとおり、障害補償給付を受ける権利の消滅時効が進行するためには、権利行使が客観的に可能となっただけではなく、当該労働者において、諸般の事情から権利の存在(当該傷病の症状の安定ないし固定及びその業務起因性)を認識しうることが必要である。

(2) ところで、騒音の生ずる職場において長期間騒音に曝された労働者に聴力障害が発生することは、原告が最終騒音職場を離職した昭和五六年一〇月九日以前から周知された事実であり、当時においても、労働者が長期間騒音職場において著しい騒音に曝露され、その業務の過程において難聴を自覚するようになり、しかも自己に難聴を来すような他の原因(薬物中毒や戦争等における爆発音に曝された経験、遺伝的、家族的要因等)がないことを十分認識したときには、遅くとも当該労働者が難聴を自覚した時点で、自己の難聴が業務に起因する騒音性難聴であることを疑い、直ちに医師による専門的、医学的な鑑別診断を受けることによって、これを覚知することができたというべきである。したがって、遅くとも当該労働者が難聴を自覚した時には、自己の難聴が業務に起因することを認識しえたと認めるのが相当である。

(3) これを本件について検討すると、原告は、前記一で認定したとおり、昭和二八年三月ころから昭和五六年一〇月九日最終の騒音職場を離職するまでの間、主としてトンネル工事の抗夫などとして就労し、その間、削岩機を使用したトンネル内の削岩・掘削作業や火薬で岩石を爆破する発破作業などに従事したり、右のような作業による騒音の生ずる場所で、一か月一〇日ないし三〇日、一日四時間ないし八時間稼働し、断続的に削岩機による著しい騒音や発破による爆発音に曝され、前記二の1で認定したとおり、昭和五三年秋ころから自己の難聴を自覚し始め、耳鳴り、肩凝り、頭痛や目まいなどの症状に悩むようになった。また、<証拠略>によると、原告は自己に前記一の騒音業務の他に右難聴を来すような中耳炎等の耳の病気、薬物中毒、メニエール病、頭部障害等による内耳障害、戦争等の際の爆発音による内耳障害、糖尿病等の病歴がないこと及び遺伝性・先天性難聴を疑わせるような病歴、親族関係がないことを当時から十分知っていたことが認められ、これを覆すに足りる証拠はない。

右の事実を総合すると、原告は、遅くとも自己の難聴を自覚した昭和五三年秋ころには、自己の騒音性難聴が業務に起因するものであることを認識しえたと認められる。

(4) これに対し、原告は、仮に障害補償給付を受ける権利の消滅時効の起算点に民法一六六条一項が類推適用されるとしても、騒音性難聴は一般に業務起因性の判断が困難な傷病に属するから、騒音性難聴に罹患した労働者が障害補償給付を受ける権利を現実に行使するためには、医師による専門的、医学的な鑑別診断が必要であると主張する。

しかしながら、右に述べたとおり、医師による専門的、医学的鑑別診断を経なくても、騒音性難聴の症状の安定ないし固定及びその業務起因性を認識しうる場合があるから、当騒音性難聴に罹患した労働者が障害補償給付を受ける権利を行使するために、必ず医師による鑑別診断が必要とはいえず、原告の右主張は採用できない。

(5) また、騒音性難聴は、一般に最終の騒音職場を離脱した時に症状が安定ないし固定するから、離職すれば、当該騒音性難聴の症状の安定ないし固定をも認識しえたと認められるところ、原告は、前記のとおり、昭和五六年一〇月九日に最終の騒音職場を離職したから、この時点において、自己の騒音性難聴の症状固定を知ることができたものと認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

(6) 以上の次第で、原告は、昭和五六年一〇月九日最終の騒音職場を離職したときには、障害補償給付を受ける権利の存在を認識しえたものと認めるのが相当である。

(三)  したがって、原告の本件障害補償給付を受ける権利は、昭和五六年一〇月九日最終の騒音職場を離職した時に客観的に権利行使が可能となるとともに、右時点において、原告が右権利を認識しえたものと認められるから、民法一六六条一項の準用により、右時点から右権利の消滅時効が進行すると解するのが相当であり、右権利は、原告が本件給付請求をした昭和六二年六月二九日には既に労災保険法四二条所定の時効期間が経過していたと解される。

そして、障害補償給付を受ける権利は、前記四2の(一)で検討したとおり、公法上の請求権に属するから、同法三一条一項により、時効の援用を要せず、絶対的に権利消滅の効果が生ずる。したがって、原告の本件障害補償給付を受ける権利は、労災保険法四二条所定の時効期間経過により絶対的に消滅し、原告の本件給付請求の時には既に消滅していたと解される(仮に本件障害補償給付を受ける権利に会計法三一条一項の適用がなく、消滅時効の援用が必要であるとしても、被告が労災保険法四二条所定の時効期間の経過を理由に本件処分をしたことにより、被告は消滅時効を援用したと認められる。)。

6  したがって、被告の抗弁は理由がある。

五  よって、原告の本件給付請求について、右請求に係る障害補償給付を受ける権利が同法四二条に定める時効期間(五年)の経過により、既に消滅しているとの理由により、被告が原告に対してなした本件処分は適法であり、原告の請求は理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき、行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 村田達生 草深重明 三角比呂)

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